沖縄戦殉難者慰霊祭

ハイサイ!こころです。私は今、沖縄県に来ています。「ハイサイ」は沖縄の言葉で「こんにちは」の意味なんですよ。今日の沖縄は、到着するちょっと前まで雨が降っていたとは思えないほど日差しがまぶしくて、真夏のような暑さです。これから3日間、私も沖縄戦の供養塔、慰霊碑の巡拝や、慰霊法要に参加します。沖縄は日本国内で唯一の地上戦があったところだと聞いていたんですが。



そうだったんですか。この南国の青い空の下で、そんなに激しい戦闘があって、たくさんの尊い命が失われたなんて……。

「沖縄戦殉難者慰霊祭」は、サイパン、広島、長崎と並ぶ念法の慰霊行事の一つとして、平成14年から始まり、今年で9回目になるんじゃ。今回は、地元沖縄念法寺の皆さんをはじめ、関東・北陸・兵庫、本山近郊の信徒の皆さんや住職、合わせて100名ほどが参加しておるんじゃよ。
1日目~沖縄戦南部戦跡慰霊巡拝~

最後の激戦地となった沖縄本島南部の糸満(いとまん)市には、数多くの供養塔、慰霊碑が建立されておる。中には小説や映画で有名な「ひめゆりの塔」のように観光客でにぎわうところもあるが、念法が巡拝する供養塔、慰霊碑はひっそりとしておって、まさしく慰霊と平和祈念のための場所なんじゃよ。



昭和20年6月にこのあたりでほぼ全滅した野戦重砲兵第一連隊の739柱をお祀りしておる。塔には明治天皇の御製(ぎょせい:天皇が詠んだ和歌)が彫り込まれておって、国のために命を捧げた方々を末永く忘れまいと讃えておるんじゃ。



県立第二高等女学校4年生54名は、白梅学徒看護隊として野戦病院で傷病兵の看護に当たっておったのじゃが、アメリカ軍に追い詰められ、塔のそばにある壕で多くの隊員が自決するなど、この地で多くの犠牲者が出たのじゃ。ここには校長や職員、白梅隊、同窓生ら149柱をお祀りしておる。



3万5,000柱!そんなに多くの方々が亡くなられたんですね……。

このあたりは沖縄本島の南端で、日本軍が追い詰められて逃げ場をなくした一番の激戦地だったからのぅ。陸海空から降り注いだ銃砲弾の雨でたくさんの尊い命が散っていったんじゃ。



そんな立派な方が志なかばで自決なさったなんて、ご無念だったでしょうね……。



白梅学徒隊やひめゆり学徒隊もそうだけど、沖縄戦では数多くの学生たちが国を守るために若い命を捧げたんですね。今、私たちが平和な世の中で自由に勉強できるのは、とても恵まれていることなのかもしれないなぁ。





沖縄と開祖親先生


2日目~沖縄戦殉難者慰霊法要~

今日も沖縄は青空が広がっています。激戦地だった糸満市摩文仁の平和祈念公園にある平和祈念堂では、いよいよ「沖縄戦殉難者慰霊法要」が行われます。




インタビュー
伊芸(いげい)千晶さん(21歳)

最初に慰霊法要に参加したときはすごく緊張したのですが、回を重ねるうちに、毎回こんなに多くの方が参加されるのってすごいなあと感じています。戦争については、おばあちゃんやひいおばあちゃんから「遺体をまたいで歩いた」と聞いたことがありますが、信じられない気がしました。今、日本は平和ですが、外国の悲惨な戦争のニュースなどを見ると、平和の大切さを忘れてはならないと改めて思います。
3日目~三中学徒之碑~





なるほど、念法とは特別なご縁がある慰霊碑なんですね。黙祷の間、録音したラッパの音が流れていますが、これにはどんな意味があるんですか。

以前は三三会の方が実際にここでラッパを吹いていたんじゃよ。当時の軍隊では「起きるも寝るも皆ラッパ」と言われて、生活のすべてがラッパの音とともにあったというから、その懐かしい音で亡くなった学友に呼びかけておるんじゃろうのぅ。

読経のなか、参列者全員がご焼香をして、ここでの勤行は終わりました。周りの木々からはセミの鳴き声が降り注ぎ、きれいな蝶が舞い飛んでいます。ひょっとして亡くなった方々の魂が姿を変えて戻ってきていらっしゃるのかなぁ。沖縄での3日間、65年前に終わった戦争の傷跡がとても生々しく感じられて、あらためて戦争の悲惨さを実感しました。今まで平和が当たり前だと思っていたけど、国を守るために命がけで戦った人たちが大勢いたことを忘れずに、もっともっと平和を大切にしていきたいと思います。こんなに美しい沖縄に、これ以上悲しい思い出はいらないですよね。