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開祖親先生のご生涯

天涯孤独となった幼年期

開祖小倉霊現師は、明治19年(1886年)9月9日、重陽の節句の日に大阪・今福の地に、小倉庄太郎として誕生。すでに父親が他界していたため、「仏の次郎兵衛」と呼ばれた信望篤い祖父の深い愛情を受けて育てられました。しかし、数々の不幸に見舞われた庄太郎は、母を助けたい一心で尋常小学校を4年で中退し、11歳で奉公に。やがて、祖父、母を相次いで亡くし、庄太郎は天涯孤独の身となりました。

貴重な邂逅に恵まれた青年期

貴重な邂逅に恵まれた青年期

いくつかの奉公、職業を経た庄太郎は、明治39年(1906年)に淡路島由良要塞に入隊。横須賀射撃学校に転属した明治41年(1908年)3月には、陸軍士官学校の大演習で東久邇宮稔彦殿下と邂逅。また、演習後に吉田豊彦教官の「水三滴で人は死す」との精神訓話に感動し、精神界の研究へと導かれました。

明治42年(1909年)に軍隊を満期除隊後、同じ店で働いていた矢倉カメと結婚し、いっそう仕事に打ち込んでいた庄太郎。大正3年(1914年)3月に独立開店を果たし、商売が軌道に乗りかかった9月、第一次世界大戦に出征することとなりました。

霊的世界との運命的な出会い

霊的世界との運命的な出会い

凱旋帰国後の大正5年(1916年)、夜も眠れないほどの頭痛に悩まされた庄太郎は、「阿弥陀のばあさん」と呼ばれる樋口セイと出会い、お加持により頭痛から解放されました。

大正8年(1919年)、大流行したスペイン風邪にかかり、生死の境をさまよいながら奇跡的に回復した庄太郎でしたが、わずか2か月後に4歳の長男を亡くし、自暴自棄になりかけます。その時、樋口セイが庄太郎を説き伏せ、「子どもはお前の身代わりに亡くなったが、今年中に代わりの子が生まれてくる」と予言すると、その言葉通り、12月29日に由貴夫(後の二代燈主)が誕生。

この体験により、庄太郎はいっそう霊的な世界に導かれていきました。

阿弥陀如来の応現、立教開宗

困難の中でも誠実さを失わず、困っている人を見れば助けずにはいられない、そんな生き方を貫いてきた庄太郎が40歳の時のこと。

大正14年(1925年)8月3日の午前2時ごろ、久遠実成阿弥陀如来(念法ご本尊)が応現され、庄太郎に霊告を授けます。「霊現よ、汝(なんじ)に霊徳を授け、信仰の立て直し、世の立て替えをする。多くの悩める人に誠の道を知らし導け」との霊告に庄太郎は驚きましたが、翌日から人の心と体がわかり、病原がわかるなど、不思議の霊徳を授かっていました。

庄太郎は、なぜこのような力が身についたのかと、さまざまな宗旨宗派に尋ねましたが、満足な答えが得られず、やがて「阿弥陀如来が自分を使って世の中の改良・改革をなさるのだ」と気付きました。

そして、霊告での呼びかけ通り、名を小倉霊現と改め、「君がため 国のためにと 法(のり)とかむ かりし衣の朽ちはつるとも」と誓願歌を詠み、多くの人を誠の道に導こうと決意を固めました。

教義体系をまとめ布教開始

教義体系をまとめ布教開始

昭和3年(1928年)4月、開祖は大阪市旭区森小路に本部を置き、天王寺区椎寺町に支部を置いて、悩める人々の指導にあたりました。

その後、ご本尊の霊示により「念法眞言」「五聖訓」「念法数え歌」など、さまざまな教えを感得した開祖は、それらをまとめて一つの教義体系をつくり、布教を開始しました。

昭和19年(1944年)4月、開祖は敗戦の霊示を受けます。そして昭和20年(1945年)8月15日、敗戦の詔勅を聞き自決を覚悟。しかし、ご本尊から「日本を再建せよ」とのおさしずを受けた開祖は、日本の復興と真の世界平和のために身を捧げようと決意を固めました。

57年におよぶご親教の日々

57年におよぶご親教の日々

開祖40歳から97歳までの57年間は、1年の大半を北海道から沖縄まで全国各地を巡って教えを説く「ご親教」の旅に明け暮れた歳月でした。

ご親教では、悩みや苦しみをもつ人々の相談に乗り、ある時は「今ここで死んでしまえ。そして、仏様の子として生まれ変わるのだ」と厳しく諭し、またある時は「みんないい顔して笑ってるな。その笑顔が大切なのだ」と優しい笑顔で語りかけるなど、相手に応じて巧みに切り替える対機説法で、救いの道を示しました。

そして、目の前にすぐさまあらわれる不思議に、多くの人々が念法ご本尊様の応現を確信し、住みよい世の中づくりの仲間として入信。全国に次々と念法寺・念法教会が誕生し、念法眞教の教えが広がっていきました。

やがて、日本が復興し豊かな国となっても、開祖は、戦時中の物がなかった時代を忘れず、戦争のない平和な世の中にしなければならないとの思いから、戦闘帽をかぶって教えを説き続けました。

昭和57年(1982年)3月5日、開祖小倉霊現大僧正ご入寂。すべての信徒はもとより、親交があった各界の方々からも「親先生」と慕われたご生涯でした。