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高山念法寺

高山念法寺
〒506‐0034
岐阜県高山市松倉町2581
電話番号:0577­‐33-5193

松倉山の麓、30万坪にも及ぶ広大な敷地に建つ高山念法寺

江戸時代の面影を残す「古い町並」
江戸時代の面影を残す「古い町並」

美しい山々に清らかな水など、大自然に恵まれた飛騨地方。そして飛騨高山といえば、合掌造りや出格子が連なる「古い町並」、朝市やさまざまなからくりを施した「高山祭り」の屋台などを思い浮かべるでしょう。「匠」という言葉も、実は木を知り尽くした飛騨の職人のことを指し、高山は有形・無形の 文化財が数多く息づく、中部地方を代表する観光地です。そんな高山の市街地から少し離れた郊外、松倉山の麓に高山念法寺が建っています。

念法眞教の2番目の支院として誕生した、高山念法寺

昭和26年、高山へご親教に訪れられた親先生(高山駅前にて)
昭和26年、
高山へご親教に訪れられた
親先生(高山駅前にて)

高山念法寺の歴史は古く、戦後まもなくの頃、和歌山県の田辺念法寺の初代住職・山本香現師が、縁のあった飛騨国に念法の灯りをともさんと、高山市をはじめ各地に念法の教えを知らせ導いたことがはじまりです。そして、昭和21年5月7日、開祖親先生がはじめて飛騨地方に訪れられました。岐阜県は、親先生が日本再建の巡教の旅において、兵庫県に次いで初親教された地域であり、高山念法寺は、全国支院の中でも、有数の歴史あるお寺です。

昭和24年、岐阜県大野郡久々野(くぐの)村にて拠点が誕生し、昭和28年には高山市内の馬場町に飛騨高山念法寺が開設されました。そして、昭和46年には、松倉山一帯約30万坪を買い取り、現在の高山念法寺が建立されました。

昭和33年、バスの中で信徒に囲まれ、笑顔の親先生
昭和33年、
バスの中で信徒に囲まれ、
笑顔の親先生

松倉山に親先生がはじめて足をお運びになった時、急な山道をお歩きになって、「この松倉は、人が多く寄ってくるところや。大きなお寺を建てて人救いのために役立てるように。松倉山は石がようけあるで。信徒の意志を固めて、そうや、『意志山寺』やなあ」と、たいそうお喜びになりました。当時の松倉山は家ひとつない荒れた山林でしたが、その後、お寺の周辺は住宅や観光施設などの開発が進み、今では親先生が言われた通りになっています。

「念法燈主水乞霊蹟」が建立された、山梨地区の湧水物語

昭和42年、ご親教の後にトンネル口に立ち寄られた親先生
昭和42年、ご親教の後に
トンネル口に立ち寄られた親先生

親先生が飛騨へ3回目のご親教に訪れられた昭和22年の8月、久々野村山梨地区でのことです。その日、信徒宅に泊まられた親先生は、家人がお風呂を沸かすために、わざわざ山の下から水を運んでくるのをご覧になって、「この村には水はないのですか」と尋ねられました。家人は「この山の下にトンネルを掘ってからというもの、水は下の村に流れてしまい困っています」とのこと。親先生はすぐさま、とうとうと水があふれ出るトンネル口まで下られ、雨乞いの神様として祀られている八大竜王へお願いされました。するとその時間に、山梨集落では水が湧き出し、そのうち雨雲が湧きおこり、大雨が降り出しました。

今なお枯れることなく、とうとうと水があふれる湧口
今なお枯れることなく、
とうとうと水があふれる湧口

その雨は2日間降り続き、雨がやんでも山梨集落で水が枯れることはありませんでした。その後、親先生は水乞をされた場所で扇形の石を拾われ、その石をお祀りする「念法燈主水乞霊蹟」の記念碑を建て、親先生ご臨席のもと、報恩法要が行われました。高山念法寺では、今も毎月記念碑にて勤行式を行い、毎年6月には法要を勤めています。

再び水が出るようになったことの証として、扇形の石をお祀りした「念法燈主水乞霊蹟」の碑
再び水が出るようになったことの証として、扇形の石をお祀りした「念法燈主水乞霊蹟」の碑