沖縄戦殉難者慰霊祭
ハイサイ!こころです。私は今、沖縄県に来ています。「ハイサイ」は沖縄の言葉で「こんにちは」の意味なんですよ。今日の沖縄は、到着するちょっと前まで雨が降っていたとは思えないほど日差しがまぶしくて、真夏のような暑さです。これから3日間、私も沖縄戦の供養塔、慰霊碑の巡拝や、慰霊法要に参加します。沖縄は日本国内で唯一の地上戦があったところだと聞いていたんですが。
太平洋戦争末期、アメリカ軍は日本本土攻撃の基地にしようと沖縄に攻め入ったんじゃよ。沖縄本島では、上陸したアメリカ軍と命がけで国を守ろうとする日本軍との間で、民間人も巻き込んだ激しい戦闘が行われたんじゃ。日本軍は将兵、学徒兵、民間人が力を合わせて戦ったが、次第に南部に追い詰められ、昭和20年6月23日に司令官牛島満中将の自決によって戦いは終わったのじゃ。しかし、その後もアメリカ軍の攻撃は続き、民間人9万4,000人を含む、18万8,000人もの日本人が亡くなったんじゃよ。
そうだったんですか。この南国の青い空の下で、そんなに激しい戦闘があって、たくさんの尊い命が失われたなんて……。
「沖縄戦殉難者慰霊祭」は、サイパン、広島、長崎と並ぶ念法の慰霊行事の一つとして、平成14年から始まり、今年で9回目になるんじゃ。今回は、地元沖縄念法寺の皆さんをはじめ、関東・北陸・兵庫、本山近郊の信徒の皆さんや住職、合わせて100名ほどが参加しておるんじゃよ。
1日目~沖縄戦南部戦跡慰霊巡拝~
最後の激戦地となった沖縄本島南部の糸満(いとまん)市には、数多くの供養塔、慰霊碑が建立されておる。中には小説や映画で有名な「ひめゆりの塔」のように観光客でにぎわうところもあるが、念法が巡拝する供養塔、慰霊碑はひっそりとしておって、まさしく慰霊と平和祈念のための場所なんじゃよ。
この「砲兵山吹之塔」にはどんな方々をお祀りしているんですか。
昭和20年6月にこのあたりでほぼ全滅した野戦重砲兵第一連隊の739柱をお祀りしておる。塔には明治天皇の御製(ぎょせい:天皇が詠んだ和歌)が彫り込まれておって、国のために命を捧げた方々を末永く忘れまいと讃えておるんじゃ。
「白梅之塔」にはどんないわれがあるのですか。
県立第二高等女学校4年生54名は、白梅学徒看護隊として野戦病院で傷病兵の看護に当たっておったのじゃが、アメリカ軍に追い詰められ、塔のそばにある壕で多くの隊員が自決するなど、この地で多くの犠牲者が出たのじゃ。ここには校長や職員、白梅隊、同窓生ら149柱をお祀りしておる。
「魂魄之塔」は、戦後この地に入植した真和志村民があちこちに散っていた遺骨を集めて祀った塔で、沖縄で一番多い3万5,000柱の無名戦士をお祀りしておる。昭和21年2月に建立され、沖縄で最古の供養塔だと言われておるんじゃよ。
3万5,000柱!そんなに多くの方々が亡くなられたんですね……。
このあたりは沖縄本島の南端で、日本軍が追い詰められて逃げ場をなくした一番の激戦地だったからのぅ。陸海空から降り注いだ銃砲弾の雨でたくさんの尊い命が散っていったんじゃ。
摩文仁(まぶに)の丘の頂上にある「黎明之塔」には、日本軍の司令官牛島満中将と長勇参謀長が祀られておる。牛島満中将は司令部の壕を掘る作業を手伝うなど、とても温厚な性格で知られており、民間人からも敬愛されておったそうじゃ。
そんな立派な方が志なかばで自決なさったなんて、ご無念だったでしょうね……。
摩文仁の丘の麓にある「沖縄師範健児之塔」には、「鉄血勤皇師範隊」として日本軍の作戦に参加した沖縄師範学校の生徒と校長、職員307柱をお祀りしておる。塔のすぐ近くにある壕では、大勢の生徒たちが君が代を歌いながら自決したそうじゃ。
白梅学徒隊やひめゆり学徒隊もそうだけど、沖縄戦では数多くの学生たちが国を守るために若い命を捧げたんですね。今、私たちが平和な世の中で自由に勉強できるのは、とても恵まれていることなのかもしれないなぁ。
参拝を終えて、宜野湾(ぎのわん)市の沖縄念法寺にやってきました。沖縄の信徒さんが大勢で迎えてくださって感激です!
沖縄念法寺は平成5年に建立された日本最南端の念法寺なんじゃ。ほれ、屋根に魔除けのシーサーがついておるじゃろ。沖縄念法寺は沖縄独特の文化を取り入れた珍しいお寺なんじゃ。おお、歓迎の踊りが始まりましたぞ。手に持った4つの竹を鳴らしながら踊る「四ツ竹(よつだけ)」は、琉球王朝時代に中国からの使者をもてなすための踊りだったんじゃ。衣装は「紅型(びんがた)」という独特の技法で作られていて、王族や貴族の衣装だったんじゃよ。次の踊りはにぎやかな「エイサー」じゃ。この踊りはお盆にご先祖様の霊をお迎えし、お送りするための踊りで、起源は仏教だと言われておる。沖縄ではとても人気があって、全島エイサーまつりなどのイベントも盛んなんじゃよ。
沖縄と開祖親先生
昭和49年11月17日、89歳にして初めて沖縄にご親教された開祖親先生。「黎明之塔」「沖縄師範健児之塔」「魂魄之塔」などをお巡りになり、「国のために戦って亡くなった人たちの心を思うと胸がしめつけられる。これらの人たちの犠牲を無にしてはならない」とお諭しになられました。このときのご親教を契機として念法の輪が広がり、後の沖縄念法寺建立、沖縄戦殉難者慰霊祭へとつながっていったのです。
2日目~沖縄戦殉難者慰霊法要~
今日も沖縄は青空が広がっています。激戦地だった糸満市摩文仁の平和祈念公園にある平和祈念堂では、いよいよ「沖縄戦殉難者慰霊法要」が行われます。
平和祈念堂中央に置かれている「平和祈念像」は、ご自身も戦争で2人の息子さんを亡くされた故山田真山画伯が、戦没者を追悼し平和を祈願するために原型を制作したものじゃ。高さ12メートル、幅8メートルあり、沖縄独特の漆工芸「堆錦(ついきん)」の技法を駆使して作られておる。
念法のご詠歌踊りが奉納され、慰霊法要が始まりました。
参列者全員で黙祷したあと、代表者による献花や千羽鶴の奉納が行われ、参列者も一輪ずつ献花し、祈りを捧げています。堂内には読経が響きわたり、亡くなられた方々の魂を少しでもお慰めできますようにと祈りながら、私も手を合わせました。
インタビュー
伊芸(いげい)千晶さん(21歳)
最初に慰霊法要に参加したときはすごく緊張したのですが、回を重ねるうちに、毎回こんなに多くの方が参加されるのってすごいなあと感じています。戦争については、おばあちゃんやひいおばあちゃんから「遺体をまたいで歩いた」と聞いたことがありますが、信じられない気がしました。今、日本は平和ですが、外国の悲惨な戦争のニュースなどを見ると、平和の大切さを忘れてはならないと改めて思います。
3日目~三中学徒之碑~
いよいよ沖縄も最終日。今日は、沖縄本島北部の本部(もとぶ)半島、八重岳(やえだけ)の中腹に建つ「三中学徒之碑」に参拝に来ています。
ここには沖縄県立第三中学校の生徒88柱がお祀りされており、昭和52年の建立以来、同窓生の方々が集まった「三三会」だけで慰霊を行っていたんじゃ。ところが念法の信徒に三中の5年生だった金城さんという方がいて、ぜひ念法で慰霊して欲しいと頼まれたため、慰霊祭の一環として参拝することとなったんじゃ。金城さんもご高齢のため今年は参加できなかったんじゃが、奥様が来てくださったんじゃよ。
なるほど、念法とは特別なご縁がある慰霊碑なんですね。黙祷の間、録音したラッパの音が流れていますが、これにはどんな意味があるんですか。
以前は三三会の方が実際にここでラッパを吹いていたんじゃよ。当時の軍隊では「起きるも寝るも皆ラッパ」と言われて、生活のすべてがラッパの音とともにあったというから、その懐かしい音で亡くなった学友に呼びかけておるんじゃろうのぅ。
読経のなか、参列者全員がご焼香をして、ここでの勤行は終わりました。周りの木々からはセミの鳴き声が降り注ぎ、きれいな蝶が舞い飛んでいます。ひょっとして亡くなった方々の魂が姿を変えて戻ってきていらっしゃるのかなぁ。沖縄での3日間、65年前に終わった戦争の傷跡がとても生々しく感じられて、あらためて戦争の悲惨さを実感しました。今まで平和が当たり前だと思っていたけど、国を守るために命がけで戦った人たちが大勢いたことを忘れずに、もっともっと平和を大切にしていきたいと思います。こんなに美しい沖縄に、これ以上悲しい思い出はいらないですよね。