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金剛寺百景~親先生日本最北端ご巡錫(じゅんしゃく)40周年祈念行事~

「北の守り」稚内の地に、親先生の足跡を訪ねて

親先生記念碑の位置
こんにちは、こころです!私は今、北海道稚内(わっかない)市に来ています。今回は、ここ稚内市で行われる「親先生日本最北端ご巡錫40周年祈念行事」の様子をレポートします。
日本最北端の地・宗谷岬
やあ、こころちゃん。はるばる稚内へようこそ。開祖親先生が初めて稚内にいらっしゃったのは、今から40年前のことじゃった。昭和48年10月4日、遠別(えんべつ)念法教会の初親教から稚内に入られた親先生は、日本最北端の地・宗谷岬の先端にお立ちになった。そして、かつては日本人の力で豊かに発展し、42万人もの日本人が平和に暮らしていた南樺太(からふと)を望みながら、多くの殉難者の方々に追悼の意を表され、日本の危機を救う道を説かれた。その日を記念して、昭和52年6月23日、宗谷岬の日本最北端の地にほど近い、ここ第二清浜に記念碑が建てられたのじゃよ。
念法眞教開祖小倉霊現大僧正 日本最北端御巡錫記念碑
記念碑のことは、以前の歳時記「北方領土視察研修」でもご紹介しましたが、間近で見ると、見上げるように大きな碑ですね!吹き付ける強い海風にもびくともせず、力強く建っています。碑には「念法眞教開祖小倉霊現大僧正 日本最北端御巡錫記念碑」と刻まれています。
灯主の祈り
こころちゃん、「灯主の祈り」と題された碑文を読んでごらん。「日本国民の心がバラバラで、ウソとマコトの見わけがつかなくなった今のままでは、日本は滅びてしまう。日本の精神的再建と世界の平和のために、まず世界にさきがけて日本人が誠の道に目ざめ、その実践に徹底することを切に祈る」と、親先生の思いが彫り込まれておる。海の向こう、わずか43kmに、今はロシアが支配する樺太が見えているのじゃ。稚内をはじめ北海道の人たちがしっかり団結して、日本の「北の守り」を堅固にしなければ、国を守ることはできんのじゃよ。
う~ん。知りませんでした。稚内は日本の国を守るために、とても重要な場所なんですね。

灯主の祈り

念法眞教燈主 小倉霊現大僧正が日本最北端の地にお立ちになったのは 昭和四十八年十月四日のことで 燈主八十八歳の秋であった。燈主は遙か海の彼方に霞(かす)む南樺太を凝視されながら「軍部の内部団結と国民の一致和合を欠いたために大東亜戦争に敗け 先祖が血と汗で開拓した樺太も千島もソ連にとられてしまった。南千島四島は日本固有の領土や。日露戦争でロシヤから奪った島とは違う。今の日本は国民の心がバラバラやから 外国の思想戦略に踊らされてウソとマコトの見分けがつかなくなっている。今のままで推移すると日本はやがて滅びる。日本人は世界の奴隷にされて かってのユダヤ人の如く地球上を放浪しなければならなくなるだろう。わたしは 二千年来吾々の祖先が営々として築いてきた この国土と民族の誇りと文化をなくすることが耐えられない。それで私はこのように声を大にして日本の精神的再建を叫んでいるのである。私はこの肉体が朽ち果てるときまで この日本の再建と世界の平和のために法を説くことをやめないであろう。世界中の人がみんな日徒(ひと)の使命に目ざめ 住みよい世の中づくりのいしずえになろうという心を持ったとき この地上には永久に戦争がなくなり 万人和楽の浄土が現成(げんじょう)する。まず世界にさきがけて日本人から目覚め 誠の道を歩むことである。誠の道を歩むものは神仏が守護してくださる。日本人すべてが誠の道を歩む時 日本の国は神仏が護って如何なる外敵も侵すことがなくなる。日本国中が誠の道に目ざめ その実践に徹底することを切に祈る」と 切々として日本の危機と日本を救う道を説かれた。

稚内公園
稚内には、先の大戦で犠牲となられた方々の慰霊碑や、当時の記憶を伝える施設がたくさんあるそうですね。稚内公園では、天に向かうように建つ大きな2本の柱と女性の像の姿が、とても印象的です。
これは「氷雪の門」といって、多くの日本人が暮らしていた樺太への望郷の念と、そこで亡くなった方々への追悼の意を表現したモニュメントなんじゃ。今日のように天気が良い日には、高さ8mの門の向こうに、樺太の島影を見ることができるんじゃよ。
九人の乙女の碑
すぐ近くに、屏風のような形をした石碑が建っていますが、これは何の碑ですか?
樺太の真岡郵便局で電話交換手として働いていた9人の若い女性を慰霊するために建てられた「九人の乙女の碑」じゃよ。終戦から5日後の昭和20年8月20日、ソ連軍が突然真岡に侵攻してきたんじゃ。迫りくる砲撃の中、9人の女性たちは重要な電話交換業務を最後まで守り抜き、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」という言葉を残して、全員が自決したのだそうじゃ。
戦争が終わったあとに、そんな悲しいことがあったなんて……。私と同年代の女性たちが、命をかけて職務を果たしたことには、本当に頭が下がる思いがします。
「九人の乙女の碑」に参拝する親先生
「九人の乙女の碑」に参拝する親先生
「九人の乙女の碑」に参拝された親先生は、「エイッ!エイッ!」と裂帛(れっぱく)の気合いをかけ、大きく手を振ってクジを切られ、「残念やった、残念やったと言うていた」と、乙女たちの思いを代弁されて、9人の霊をお慰めになったのじゃ。一方的に中立条約を破って侵略してきたソ連軍に、多くの無抵抗な人々の命が奪われたことを思うと、今でも無念さで胸がいっぱいになるのぅ。
稚内港には、古代ギリシアの遺跡みたいな立派な建造物がありますが、これは何ですか?
北防波堤ドーム
「北防波堤ドーム」といって、稚内と樺太を結ぶ定期船と、鉄道の駅を結ぶ通路を守る防波堤なんじゃ。終戦直後は、着の身着のままで樺太から避難してきた大勢の人たちが、このドームの下に身を寄せ合って、列車の到着を待っておったそうじゃよ。 70本の円柱に支えられた重厚なデザインのドームは、高さ14m、全長427mもあるのじゃ。北海道遺産に指定されておるから、戦争の記憶を永く後世に伝えてくれることじゃろう。

豆知識

樺太
樺太は、日本固有の領土である北方四島とはどう違うのですか?
日本固有の領土とは、北方四島のように、他国より先に日本人が切り拓いた土地を指すのじゃ。樺太は、明治38年のポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太が日本領になったとはいえ、かつては「日露混住の地」であったため、日本固有の領土とは言い切れない。しかし、南樺太に水産業、製紙業、鉱業などを発展させ、それまでとは見違えるように豊かな地にしたのは日本なんじゃよ。現在の樺太は開発が十分に及ばず、決して豊かではないそうじゃから、南樺太の大地も「日本領に戻りたい」と思っておるんじゃないかのぅ。

インタビュー

記念碑が宗谷岬・第二清浜に建立されるまでのいきさつを、3人の信徒さんにうかがいました。

遠別念法寺:井上常光さん

遠別念法寺:井上常光さん

記念碑は最初、遠別念法教会に建てられました。ところが、昭和50年の除幕式の時に、親先生が「これは稚内に持っていかなあかん」とおっしゃったんです。それで、どこに建てたらいいかと、当時の浜森稚内市長さんにご相談したんです。

稚内念法寺:安藤すずさん

稚内念法寺:安藤すずさん

例年この時期は天気が悪くて、寒さと強風で大変なんです。今回のように天気がいいのは、平成15年に三代燈主様がいらっしゃった時以来です。40周年の節目なので、親先生がお守りくださっているんだなあと感じます。

稚内念法寺:福島恵子さん

稚内念法寺:福島恵子さん

たまたま私の主人が市長さんを存じ上げていたので、お願いに行きました。ありがたいことに、市長さんも一緒に沿岸を歩いて、いい場所を探してくださったんです。第二清浜にしよう、と英断してくださったのも市長さんなんですよ。

終戦まで樺太に住んでいた福島さんに、当時のことをうかがいました

終戦のとき、私は14歳、女学校の2年生で、真岡に住んでいました。その頃の樺太は、製紙工場や炭鉱、ニシン漁で栄えていて、とても豊かな暮らしだったんです。ところが終戦の数日後、夜中に地響きがするので驚いて外を見ると、人が大勢連なって歩いている音でした。侵略してきたソ連軍から逃げてきたんです。私たち家族も逃げましたが、途中でソ連軍の飛行機に威嚇射撃されたり、真岡が艦砲射撃される爆音や、炎も見えて、本当に恐ろしい思いをしました。やっと船で稚内に着いたのは、8月24日の深夜のことでした。あれから68年、サハリンに行ってきたという友人もいますが、私は行きたくありません。日本に返ってきたら行きます。樺太は私の故郷ですから。

親先生日本最北端ご巡錫40周年祈念行事

宗谷岬・第二清浜
宗谷岬・第二清浜には、晴れ渡った空から暖かな日差しが降り注いでいます。記念碑前は、北海道の各地から集まった信徒さんたちでいっぱいです。祭壇が設けられた記念碑に、花や千羽鶴が献納されて、祈念法要が始まりました。
碑文の「灯主の祈り」を全員で唱和
御導師の先導で、全員で般若心経を上げ、念法眞言、念法開祖ご宝号を唱和して、親先生への報恩とお誓いの気持ちをお示しするのじゃ。碑文の「灯主の祈り」を全員で唱和するのも、大切なことなんじゃ。日本人すべてが誠の道を歩むようにと説かれた親先生のお言葉を、皆が心を一つにして唱和することで、「北の守り」をしっかりせねばならんという決意を新たにしているんじゃよ。さあ、こころちゃんも一緒にどうじゃな。
「灯主の祈り」を全員で唱和
はいっ!私も日本人の一人ですもの。気持ちを込めて唱和させていただきます。
北方四島返還祈願護摩供
祈念行事は稚内念法寺に会場を移し、「北方四島返還祈願護摩供」が行われました。日本固有の領土である四島が一日も早く返ってくることを願い、私も静かに手を合わせました。
中山成彬氏による記念講演
続いて、衆議院議員・中山成彬氏による記念講演が行われ、工藤稚内市長をはじめ、稚内市の関係者の方々もご臨席の中、大勢の聴衆が熱心に聞き入っていました。
40年前の親先生の足跡を訪ねるうちに、日本人が汗水流して発展させた南樺太が、ソ連の不当な攻撃で奪われ、多くの尊い命が失われたことを知りました。こんな悲惨なことを二度と起こさないためにも、日本人が心を一つにして、しっかり国を守っていくことが大切なんですね。私は大阪に帰りますが、稚内をはじめ北海道の皆様、「北の守り」をよろしくお願いします!

念法教団は、協働者として地域や社会に貢献します

工藤市長
工藤市長

念法眞教は、協働者として地域や社会に貢献します。稚内は日本最北の地。念法が教団として彼の地に赴くのは、自分たちの親や祖先、日本という国が辿ってきた道筋や、かつてその地に立った親先生の、「国と心の守り」「誠の道」に対する想いを忘れないようにするためです。それはとりもなおさず、地域や社会において求められる宗教の役割への、念法眞教のひとつの回答でもあります。

左前列から吉田制作調整部部長/小川元市議会議長/工藤市長/表教育長
左前列から吉田制作調整部部長/小川元市議会議長/工藤市長/表教育長

念法眞教は、「親先生日本最北端ご巡錫記念碑」を縁として、かねてから稚内市と親交があり、例年市長や市政の中枢を担う方々と懇談の機会をもっています。今回の懇談では、市が後援する念法眞教主催の記念講演もあることから、良き稚内づくりという市の経営にも話が及び、住民・企業等の民間の力を借りて地域経営に取り組む「新しい公共」が話題にのぼりました。

現在、地域や社会には様々な問題や課題が山積みしています。これらの問題の解決には、従来は自治体のみが関わるという意識が強くありました。しかし、近年現れてきた諸問題は、財政難や住民ニーズの多様化などを背景に、自治体単独では解決がおぼつかなくなってきています。 これらに対して、自治体とともに様々なプレイヤーが協働者として地域経営に協力するのが「新しい公共」の姿ですが、念法眞教も国民の幸せを願う宗教教団として、今後も稚内市をはじめ様々な機会を捉えながら、協働者として地域や社会に貢献していくつもりです。