念法眞教とは 念法眞教の歩み 念法眞教の歩みと、これまでの活動をご紹介します。

立教開宗まで

開祖 小倉霊現初代燈主は、明治19年9月9日、当時の大阪府東成郡鯰江村字今福で誕生しました。明治29年9月23日小学校を4年中退してヤスリ鍛冶屋へ奉公に出、その後いくつかの奉公・職業を経て、明治39年12年15日、淡路島由良要塞に入隊します。明治41年4月には、横須賀の射撃学校への転属を命じられ、数日後参加した習志野から下志津にかけての陸軍士官学校の大演習で東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)殿下と邂逅(かいこう)され、また演習のあと吉田豊彦教官の「水三滴で人は死す」との精神訓話に感動し、精神界の研究をされる端緒となりました。

明治42年12月23日、軍隊を満期除隊し、その後は矢倉カメ(照晃院さま)と結婚されます。大正3年1月に起こった九州桜島の大爆発の時、いち早く被災者救済のために立ち上がり、義捐活動をすすめました。同年3月15日に独立開店し、商いが軌道に乗りかかったころ、9月に第一次世界大戦で出征されました。

凱旋帰国の後、大正5年に原因不明の病気に悩まされ、その病気を縁として樋口セイ(霊生院さま、世間では阿弥陀のばあさんと呼ばれていた霊感師)と出会います。
大正8年に大流行したスペイン風邪にかかり生死の境をさまよった庄太郎は、奇跡的に回復しますが、代わりに長男が感冒にかかり、翌大正9年2月15日、看病の甲斐なく亡くなりました。希望を失った庄太郎は失意のどん底に苦しみますが、そこで樋口セイに「死んだ子はお前の身代わりになった。今年中に代わりの子(次男)が生まれてくる。その方は、現在ヤハタ(八幡)で修行している。死んだ子は、7年後に小倉家に再び出生する」と予言しました。その後、11月11日、予言の実現を見ずして樋口セイは亡くなりますが、予言の通り12月29日に次男(のちの二代燈主)が誕生しました。

立教開宗

大正14年8月3日、突如として久遠実成阿弥陀如来(くおんじつじょうあみだにょらい)の霊告を感得します。このときの霊告は、「世は末法であっておしえはあっても形骸化しているので汝に霊徳を授け、信仰の立て直しをし世の中の立て替えをする。汝は六根を清浄にして、多くの悩める人に誠の道を知らし導け。必要なことは汝の口を割ってわし(仏)が話す」というような内容でした。その翌日から開祖の体には異変が起こり、他人(ひと)の心と体がわかり病源がわかるなど、不思議の霊徳を授かりました。

開祖はどうしてこのような不思議な(霊)力が身についたのかがわからず、神道・仏教各派の碩学をたずねて調べてもらいましたが、満足な答えは得られませんでした。こうした宗教遍歴は数年続きましたが、結局、外に求めることの無駄を悟り、内省を深めたとき阿弥陀如来の霊告に帰着し、阿弥陀如来が自分を使って世の中の改良・改革をされようとしているのだと気付き、それより、

君がため国のためにと法とかむかりし衣の朽ちはつるとも

との誓願の歌を詠み、この一身を済世利人(さいせいりじん)・此土浄土(しどじょうど)実現のために捧げよう、と決心されました。

初期布教

昭和3年4月、金剛教会は本部を大阪市旭区森小路に置き、支部を天王寺区椎寺町に置いて、開祖は毎日午前中は森小路の本部で、午後は椎寺町の支部で悩める人たちの指導にあたりました。そして神仏神霊感応会と神仏眞霊謝恩会をつくり、会員制による教団づくりをはじめました。

その後、開祖はご本尊の霊示を自身が感得したこと(御眞言(注)、念法紋章、念法数え歌、五聖訓、第二次世界大戦開戦の霊示、女性覚醒の霊示、胎内教育の霊示など)をまとめ、一つの教義体系をつくり、世の人々に布教しようとしましたが、その当時は宗教団体法があり、大宗派大教団の傘のもとでなければ布教・教化が難しかったので、昭和14年、天台宗修験道の本山である吉野山金峯山寺(きんぷせんじ)に身をよせ、天台宗金剛教会として布教したのでした。

昭和19年4月、開祖は敗戦の霊示を受けました。それから翌昭和20年8月15日、敗戦の詔勅を聞き、自決を覚悟します。このとき、「泣くな嘆くな五年でかえる、おそうて六年中頃までに」という日本占領終結のご霊示と共に、日本を再建せよとのおさしずを受け、日本の復興と真の世界平和のためにこの身を捧げようと決意されました。

注) 御眞言…念法霊現念力不可思議感応神通